17のコミュニティ、2つの歴史のたどり方、パリをめぐるひとつのサイクリング。

パリがあなたの国から受け取ったもの、そしてパリ市民となった同胞たちの物語です。私たちのカタログには17のコミュニティがあります。すでに行程が完全に仕上がっているものもあれば、まだ骨格だけのものもあります。あなたのコミュニティが見当たらない場合は、ご依頼をいただいてから組み立てます。ただし、いつまでにとはお約束できません。まずコミュニティを、次に歴史のたどり方をお選びください。そのうえで、私たちに何をお話しできるかを率直にお伝えします。

このサイクリングは、フランス語または英語のみで実施されます。このページは、お客様がコースをお選びいただき、お申し込みいただけるように翻訳したものです。当日、同行スタッフがお話しするのはフランス語または英語のいずれかで、どちらをご希望かはお申し込みの際にご指定ください。

考え方は2つの方向に分かれます。ひとつは去っていった人たちです。あなたの国の歴史のなかのパリ、ここで結ばれた条約、ここから広がった思想、そしてパリの一室から自国を変えた同胞たち。もうひとつは着いた人たちです。そのまま留まってパリ市民になった人、トランクひとつで着き、街に痕跡を残していった人たち。まずコミュニティを、次にたどり方をお選びください。コミュニティによっては、材料がひとつのサイクリングに収まり、両方を合わせてご案内します。貸切のみで、1名あたり115ユーロ、税込の目安料金です。フランス語または英語で、所要は2時間30分から3時間。確定料金はお支払いの前に書面でお知らせします。

イギリス。10歳の子どもだったイングランド王が、1431年12月16日にノートルダムでフランス王として戴冠しました。メアリー・ステュアートはフランス宮廷で育ち、1558年にノートルダムで王太子と結婚します。オスカー・ワイルドは1900年、ボザール通りで亡くなりました。ドイツ。ヴァノー通りに住んだマルクスは、1844年8月28日にパリでエンゲルスと出会い、以後たもとを分かちませんでした。ワーグナーは1861年、『タンホイザー』がパリ・オペラ座の舞台に挑んだときに口笛を浴びます。ハイネは1856年に亡くなるまで、25年をパリで過ごしました。イタリア。フィレンツェから来た2人の王妃がフランスを統治しました。フィレンツェ生まれのリュリは王の音楽総監督となり、抒情悲劇の父となります。モディリアーニはヴァヴァン交差点にいました。スペイン。ピカソはバトー・ラヴォワールにいて、1937年にグラン・ゾーギュスタン通りで『ゲルニカ』を描きました。ラ・ヌエベは、解放されたパリに最初に入った部隊です。北欧。ストリンドベリはパリで『地獄』を書き、ムンクは1896年と1897年にアンデパンダン展に出品しました。スウェーデンの王朝はナポレオンの元帥から生まれています。ロシア。1909年のバレエ・リュス、1913年の『春の祭典』の騒動、白系ロシア人のダリュ通り。

アメリカ。ラ・ファイエットは、バンカーヒルから運ばれた土の下、ピクピュスに眠ります。オデオン通りにはロスト・ジェネレーションがいました。ブラジル。1816年にリオへ発ったフランス芸術使節団、1923年から7年をパリで過ごしたヴィラ・ロボス、そして1965年の設計がコロネル・ファビアン広場の共産党本部となり、1971年から使われているニーマイヤー。アルゼンチン。フランス風に描かれたブエノスアイレス、1951年から1984年に亡くなるまで33年をパリで過ごしたコルタサル、そして読者が今も石けり遊びの絵を残していくモンパルナス墓地の彼の墓、ナディア・ブーランジェによって自らの根へと送り返されたピアソラ。メキシコ。ナポレオン3世のメキシコ出兵、ラ・リューシュの住人のひとりだったディエゴ・リベラ、1939年にパリで作品が展示されたフリーダ・カーロ。

日本。エコール・ド・パリの日本人、藤田嗣治。続いて高田賢三、三宅一生、1977年にパリのオートクチュールに認められた最初のアジア人デザイナー森英恵、そして山本耀司。中国。1920年代の勤工倹学の学生たち、ゴドフロワ通りの銘板、13区のアジア人街。韓国。1900年の万国博覧会でシャン・ド・マルスに建てられた大韓帝国の館は、統一された国としての国際博覧会への最後の出展でした。続いて、1971年のパリ・ビエンナーレで来仏し、以来日本とパリのあいだで制作を続ける李禹煥。インド。アルゼンチンのビクトリア・オカンポの呼びかけで1930年5月にパリで展示されたタゴールの絵画、パサージュ・ブラディ、夏の終わりにパリ北部を進むガネーシャの行列。ベトナム、カンボジア、ラオス。1921年から1923年まで、コンポワン袋小路の暖房のない一室。そして1975年以降の13区。マグリブ。1924年から1927年までパリで法律を学んだブルギバ、1926年にパリで創設された北アフリカの星、グット・ドール地区。湾岸アラブ。1980年にフランスと18のアラブ諸国によって設立されたアラブ世界研究所と、1987年にセーヌ河畔に完成したその建物。リストにあなたのコミュニティが見当たらなければ、どうぞお申し付けください。

以下の立ち寄り先は、複数のサイクリングから取った例です。お選びいただくコミュニティと歴史のたどり方に応じて、2時間30分から3時間の行程では、パリの同じ一帯にある4か所から5か所を選びます。ルートはサイクリングの前にご一緒に決めます。出発と帰着は同じ地点で、パリ7区です。ここで自転車をお渡しし、ここでお返しいただきます。一周は一帯によって12キロメートルから18キロメートルです。建物の中に入ることはなく、入場料も飲食代も料金には含まれません。

コースの途中で

17のコミュニティ、2つの歴史のたどり方、パリをめぐるひとつのサイクリング。

ピクピュス墓地、12区

パリでは数少ない私営墓地の門の前で、恐怖政治期の2つの共同墓穴の話をします。1794年の夏、1300を超える遺体がそこに投げ込まれました。そしてラ・ファイエットの墓。それを覆う土はバンカーヒルのものです。ラ・ファイエット自身が1824年から1825年のアメリカ旅行から持ち帰り、ジョージ・ワシントンと名づけられた息子が父の棺の上にまきました。1917年7月4日、パーシング将軍の参謀の大佐がこの墓の前で頭を垂れ、のちに語り継がれる4語を口にします。「Lafayette, we are here」、ラファイエット、我々は来た。墓地は私営です。お話は門の前から行い、入場料は料金に含まれません。

ゴドフロワ通り17番地、13区

ありふれた建物と、1枚の銘板。この住所にあった、いまは取り壊された小さなホテルで、1922年から1924年まで、パリの活動家の輪に加わったひとりの若い中国人が暮らしていました。のちの中華人民共和国首相、周恩来です。部屋の広さは4.5平方メートル、鉄製のベッドがひとつと椅子がひとつ入るだけでした。銘板は1979年に設置され、漢字の名前は同じパリの人脈にいた別の勤工倹学生、鄧小平が書いています。中国の公式代表団は、今もこの扉の前で足を止めます。

ヴァヴァン交差点、モンパルナス、6区

1900年代から1939年まで、エコール・ド・パリが待ち合わせ場所にした交差点です。数フランや一度の食事と引き換えに素描を手放していたモディリアーニ、黒い前髪の藤田嗣治、スーティン、ザッキン。アトリエとテラスが並ぶ一帯でした。ラスパイユ大通りの中央には、ロダンの『バルザック』が立っています。1891年に注文され、1898年に依頼主から拒まれ、彫刻家の死から22年後の1939年7月に、ブロンズに鋳造されてここに据えられました。中央分離帯から眺めるだけで、どこにも入りません。

ギャルリー・ヴィヴィエンヌ、2区

公証人会の会頭のために1823年に建てられ、1826年に発注者の名を冠して開業し、のちにギャルリー・ヴィヴィエンヌとなったパサージュです。ガラス屋根の下で、1970年4月にひとつの日本の店が開きます。5年前にほとんど手ぶらで東京から出てきた高田賢三の、最初の店でした。鮮やかな色と自由な裁ちによる初期のコレクションは、パリのモードを日本人デザイナーに開いたもののひとつです。ギャルリーは私有地です。開いている時間が決まっており、入るのは徒歩で、中を自転車で走ることはできません。

シャンゼリゼ劇場、モンテーニュ通り、8区

1913年5月29日、『春の祭典』の初演のさなかに客席は真っ二つに割れます。前例のない不協和音、ニジンスキーの振付、指揮台にはピエール・モントゥー。あまりの騒ぎに、ニジンスキーは舞台袖で椅子の上に立ち、声を張り上げて拍を数えました。パリのロシア人ストラヴィンスキーは、姿を見せずに終わりを待ちます。劇場は歴史的記念物に指定されています。お話は歩道で、正面を前にして行い、入場料は料金に含まれません。

ラ・ヌエベ戦闘員庭園、パリ市庁舎、4区

パリ市庁舎の庭のひとつが、ラ・ヌエベの名を冠しています。ルクレール師団のこの中隊は、大半が亡命したスペイン共和派で構成されていました。その車両は、1944年8月24日の夕方、連合軍として最初にパリに入り、市庁舎の前まで進みました。マドリード市から贈られた銘板が、このスペインの反ファシストたちを伝えています。彼らの多くは、続けてスペインへ向かうことを望んでいました。待つことになったのは1975年です。

パサージュ・ブラディ、10区

1828年4月に開業したこの屋根つきパサージュは、パリで最も長いものになるはずでした。ギャラリーの長さは216メートル、幅は3メートル50。1970年代からは、カルダモンも布地も理髪店も含めて、街のインドとパキスタンの中心になります。そこから10分のところには、スリランカ内戦のあいだにやってきたラ・シャペルのタミル人のコミュニティがあり、夏の終わりのガネーシャの行列はこの界隈から出発します。ギャルリー・ヴィヴィエンヌと同じく、このパサージュにも開いている時間と決まりがあります。入るのは徒歩で、飲食代は料金に含まれません。

実用情報
所要時間
2時間30分から3時間。一帯によって12kmから18kmの周回で、出発と帰着は同じ地点です
レベル
自転車に乗れること、そしてパリの交通のなかで落ち着いていられることが必要です。コースは、自動車やバス、歩行者と並んで、一般の交通に開かれた道路を通ります。電動アシストが上り坂も含めて力仕事の大半を引き受け、同行スタッフはグループに合わせてペースを調整します。
出発
パリ7区。自転車をお渡しし、お返しいただく正確な集合場所は、お支払いの前に書面でお知らせします
グループ
貸切のみ、1名あたり115ユーロ、同行スタッフ1名につき参加者は最大5名です。5名を超える場合は、空き状況によっては同時にもうひとつのグループを組める可能性があります。その実施の可否と料金は書面でお知らせします
言語
フランス語または英語のみ。グループでお選びいただけます

お申し込みはリクエストであり、確定した予約ではありません。実施の可否、日程、集合場所、最終的な料金は、お支払いの前にすべて書面でご確認いただきます。料金はお一人あたりの目安で、税込です。電動アシスト自転車とヘルメットの利用料を含みます。有料の入場や建物内部の見学は一切含まれません。解説は通り、聖堂前の広場、橋の上から行います。

このサイクリングについてよくあるご質問

サイクリングは自分のコミュニティの言語で行われますか。

いいえ。私たちのサイクリングはフランス語または英語で行い、どちらにするかはグループでお選びいただきます。それ以外の言語では行いません。ご案内するのはあなたのコミュニティの歴史であって、それを語る言語ではありません。ご連絡の際に、ご希望をお知らせください。

自分のコミュニティがリストにありません。どうすればよいですか。

ご連絡ください。私たちのカタログには17のコミュニティがあり、行程が完全に仕上がっているものもあれば、まだ骨格だけで、実施を重ねながら肉づけしているものもあります。リストにない国については、パリで実際に手に入る歴史の材料を調べたうえで、何を組み立てられるかをお伝えします。いつまでにとはお約束できません。ご予約の前、お支払いの前に必ずお知らせします。

実際には何を見るのですか。入場料は含まれますか。

場所から場所へ自転車で移動し、話はすべて外で、建物の正面や広場、前庭、橋の上で行います。記念物や美術館の入場料、館内の見学、試食、飲食は、いずれも料金に含まれません。私たちの手の及ばない場所もあります。墓地はもちろん、屋根つきパサージュやギャルリーは私有地で、それぞれの開いている時間と入る際の決まりがあり、徒歩で入る必要があります。したがって、当日にある場所が開いていること、そこに入れることを保証することはできません。

料金はいくらで、何名まで参加できますか。

サイクリングは貸切のみで、1名あたり115ユーロ、税込の目安料金です。同行スタッフ1名につき参加者は最大5名です。5名を超える場合は、空き状況によっては同時にもうひとつのグループを組める可能性があります。その実施の可否と料金は書面でお知らせします。確定料金は、お支払いの前に書面でお知らせします。

予約はどのように行い、支払いはいつですか。

お申し込みは確定した予約ではありません。コミュニティ、歴史のたどり方、日付、集合場所をご一緒に決めたうえで、確定料金と適用される条件を書面でお知らせします。お支払いは、この書面での確認のあとにいただきます。

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お申し込みはリクエストであり、確定した予約ではありません。実施の可否、日程、集合場所、最終的な料金は、お支払いの前にすべて書面でご確認いただきます。料金はお一人あたりの目安で、税込です。電動アシスト自転車とヘルメットの利用料を含みます。有料の入場や建物内部の見学は一切含まれません。解説は通り、聖堂前の広場、橋の上から行います。

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